昭和41年12月07日 夜の御理解
此方の行は火や水の行ではない家業の行ぞと、此方の行は火や水の行ではない、家業の行ぞと。と言う事は百姓しておる人は百姓しておるその事が行だと。商売をしておる人は商売にその事に努めさせて頂く事が行だと。私はそういう風に思うておったですねえ。所がそれではね、おかげは受けられませんね。私は今日はそんな一つのま、発見ですね。そうじゃないです。例えば家業の行というのは、家業をまいうなら勤め勤めするがよいと仰るが、家業を勤め勤めしていきよる内にです、様々な問題があるのです。
その問題から逃げずね、かんじするような事をせずね、その問題に取り組んで行くということなんですね。はあもうこげなことなら商売止めたがよかと例えば言う様な場合もです、そこんところを大事にして行く行なんです。商売しておればもう行なんだ。百姓して居れば、そのことが行だと。自分が勤めに出ておる所に忠実にやっておれば、それが行だと。というふうに この御教えはお互い頂いておりますけれどね。又というて段々信心、修行に出られますね。が深刻になって参ります。
私どもはあの二十何年前の、修行中の時分のことを思うて見るんです。ほんとにあの、家内もおらん、子供もおらん、親も兄弟もいない、もう自分ひとりになったならどげな素晴らしい信心がでけるだろうかと、もうほんとに一生懸命の信心をさせて頂いて、最後にそういうことを考えるようになっていた。梅林寺の坊さんあたりがあの、修行に出られますね、連れ立って、あれがうらやましゅうてたまらじゃった。ね。
ところが神様はその家内やら子供やら、その煩わしい問題そのものをです、その中にです、それを引っさげてです、ね、修行していくのがお道の信心だと、お道の信心の修行だと言う様な事を頂いて、それから逃れたら、金光様の信心は修行じゃないと。段々ここ最近のことでございますけれど、例えて言うならば、今日もも私親教会の総代会に参りましてから、私の御本部行きのことが、又話になっておりますけれど、実を言うたらもうあの金光様の教師の資格なんかは、どうでも良いのである。ね。
又こんなこというなら、御造営のあの広前のことなんか、私にはどうでも良いことである。ね。あれがどう出来んならん、どう建てんならんということじゃないです。私は教師の資格を頂いて装束を、正式な装束でも付けたいと、言った様なですね、もうそんなことは自分の夢にもしてないですよ。ね、そういう例えば思いの中にです、ね、例えば教師の資格を取らんといけんとか、やはり押してでももう一年行かにゃいけんとか、行かんがええとか、色々な問題がそのことについて。
ま いうなら煩わしい問題がいっぱいそのあるんです。今日でも出てきたんです。しかもそれがその私達の事だけじゃない、三井教会だけの事じゃない。他の教会の関係からもそれが生まれてきて居ると言う事です。煩わしい事だなあ、はぁこう言う様な時にね、昔のあの仏教の本当に修行を極めてですね、そしてそれこそ金欄の衣をまとえれるようになってから、その品性とか様々な、その信仰的信仰ではない以外の、その人間的紛争の中にあったりするとです、はぁもう嫌だ嫌だと言う事になって来るんです。
そして今迄頂いとった資格、いわゆる金爛の衣を脱ぎ捨てて又 墨染めの衣に身を替えて、そして修行に出るとか、又はその庵を結んで、そこで念仏三味に暮らすとかと言った様な、高僧知識と言われた人達の中には、そげんとが随分有るんです。私共信心もそうなんですね。もう私しゃほんなことそれをですね、嘘んごと言うです、皆がね。私がそら午前中の場合でも色々問題が出けて私しゃどうでんよかとばいのち、親先生あんたそのやかましく言われますけどもです、もう真実私はそうなんですから。
あれをゴタゴタなのですから。もうここだもう私、まぁこれだと言よるならば、ならあそこに四畳半なら四畳半の、楽室なら楽室の控えが有りますが、もう実はあそこ一つあればいいんですから私には。あそこあそこ元々与えられんのだ。もうほんとにそうなんですね、あのいわば立派な装束に身につけようとも思わないですね。そういう煩わしい事だから、それだから御本部行かんならんてなもんでは。昔の偉いその坊さん達はですね、折角難行苦行してから、そのまあ立派なお寺に座れるようにもなる、ね。
いわゆる、その使える様になってからです、その衣も惜しげも足蹴もなく、かなぐり捨てて山に篭られると、言った様なのはこういう心境の時であろうかと、私は思うです。私は本当にそうなんです。ところがですね、さぁそれではお道の信心には、ならないと言う事なんです。山に篭って、私篭って有難いその念仏三味なら、念仏三味でんならそげしていければよかろうけれども、それではお道の信心ではない。家業の行というのは、そんなもんじゃない。
家業の行というのは、そういうはあ嫌だ嫌だと言う様なです、もう商売しとるからこそこう言う様な事も聞かんならん。もうほんとに嫌だという、そういう嫌だと言う様な頭を、打ち破れたような問題の中にですね、その問題を実意丁寧に取り組んで、一つ一つをおかげにしていくところにです、おかげの世界というのが広がって行く、というのがお道の信心だと。そしてその煩わしいと思うておった事も、御神意の中であった、神様の願いの願いのことであったと言う様な事。
本当にそう真剣に思うたことがあるです。ね、いうならばもう家内も子供も、いわば振り捨てて、そして修行一本にならせて頂いたら、どんなにかよか修行が出来るだろうか。ところが絶対私は出来ないですね、それでは、ね、私はあの、福岡の長浜町におります時分に、家内子供を帰して、そして私一人であそこで、暫くおかげ頂いた事があったんですけれどもね、それで修行にならん。ね。椛目で子供やら見てくれたり、もう自分だけはどうでもいい。
自分一人ならどげな修行でも出来ると思うけれども、さぁ自分ひとりじゃそのどげな修行でもでけなかったから、不思議です。たしかに煩わしいもの。けれどもその問題を引っさげていくうちに、力が出来る。その煩わしい問題の中に、真の道を求めさせて頂くところにです、心が広うなる、心が豊かになる、大きくなるおかげが頂けるということです。今日私それを考えたときに、この方の行は家業の行と仰る。
どうも家業の行というとこに、あんまり単純なですね、その見解を持っていた。皆んなもまた、そのようにしか思っていない。金光様の御信心なもう家の行ではない、もう家業そのものが行だから、商売なら商売に、しとりゃ行になるのじゃなくて、仕事その行を通して起きてくるところの、煩わしい問題なんです、いうならば、もう商売はいやだと思うような、もう勤めなんかはいやだなと、こう思うその中にです。
そのことを火の行とも水の行とも頂いてです、ね、いくということが、家業の行だと言うことを、今日は分からして頂いた。そうやって来るときにです、教祖のその火や水の行ではない、家業の行と仰る、家業の行というものが、本当の意味においてなるほどこれなら、家業の行だなという、私はそんなことを分からして頂いたんですけれども。お互いが持っておる様々な問題の中からです、逃れよう、これはだからもう家業の行から、逃れようとしておることです。ね。
そのことの中にあって、そのことを私信心でおかげにしていく、解決のおかげを頂いていく、いやそのことを信心のいよいよ力とも、広う心をしていくための豊かにしていく、ためのものにして行かなければならない。そういう意味で初めてなるほど、家業の行だなとおもうんです。なるほど火や水どん、いや火の行やら水の行やらしとることでは、そういう素晴らしいことはと思うような気がするですね。
どうぞ。